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霧幻峡(三更)の歩み   三更の歴史

◎写真で見る 三更集落の歴史

         

        

◎三更集落の歴史
○慶長16 年(1611 年)8月21 日
  会津大地震で、シラス層が大崩壊をおこし大量の土石が只見川をせき止めて、人造  湖を形成し、10km上流の関根集落が水没して、対岸の宮崎集落に移転をするという大 災害の歴史があり、これを「堂岩崩れ」としてその恐ろしさは、今に伝えられています。
  その水没をした関根集落こそが、そもそもの三更集落の原点でありました。、

○関根集落はその後、そこから6km程下流の高倉集落の川向かいの古三更に集団移 転をしましたが、100年後(今から300年前)に集落裏山が崩壊し、再びの廃村、集団移転を余儀なくされました。

○今から300年前
  古三更現在の三更地区に集団移転を行いました。
 三度目の移転であったことから、その集落の地名が「三更」になったと言われています 400年前に集団移転の原因となったその土砂崩壊の地に、300年後安住の地として移 り住む事になったのです。
  因果は巡るといいますが、数奇な運命と巡り合わせを感じざるを得ません。
 …そして半世紀前、安住の地であった筈の三更地区は、またもや土砂崩壊となって、 住民に4度目の集団移転を突きつけたという訳です。
 ともあれ、300年前に移転をした三更集落は、只見川渓谷の川縁の弱小集落ながら、渡し舟を自家用車のように自在に操って、貧乏ながらも平穏な生活が250年間も続きま した。


 

○昭和28 年〜採掘が始まった玉造硫黄鉱山は、村に活況を及ぼしたものの、僅か7 年で閉鎖となりました。
 高度成長期になると硫黄の需要減や輸入の増加で採算が悪化 し、昭和35 年に完全に閉山となりました。
 その間、鉱山には地区民は元より、近隣から多くの若者が従業員として働き、鉱山関係者が地区の民家に間借 りをしたりして、一時的に せよ村は非常な活況を及ぼしました

               

○昭和39年3月三更集落の裏山が大崩壊を起こしました。
 硫黄鉱山の閉山により放置された鉱山採掘穴にやがて水が溜まり、それがブナ坂大崩 壊の原因となり、三更集落は三度、廃村の道を辿る事となりました。
 崩落の原因と成った採掘穴の放置に対する責任も、事業会社は既に解散しており、鉱山開を許可した国の責任も、当時では問うことが出来ず、1戸あたり50.000円程度の見 舞金しか出なかったために、貧村の村民は、惨憺たる苦労をし、泣きながら莫大な借金 をして、4度目の移転先である雨沼地区に移り住む事になりました。